おはこんばんちはならー!
あ~るで子です。
きゅーたろうとしっかり話すための下ごしらえというか、
壁打ちをこちらでしてみようかと。
端的に申し上げますと、今後はMクラスにて学習を進めることになりました。
2月から4月、4月から現在に至までの私の関わり方の変化は、
ブログを見ての通りです。
つまり、4年生時から5年4月までは、かなり介入型の併走。
やることの書き出し、進捗管理、マル付け、できていないところの把握、
お尻を叩く、おだて上げてやる気を煽る、などして、
塾の宿題は完璧にしあげたのち、プラスほんのちょっと
弱点補強か、長所を伸ばす教材に手をつけていました。
テストの内容には隅から隅まで目を通し、できるまで繰り返す。
弱点を見つけたら先述のプラスほんのちょっとのテコ入れで潰す。
4月以降は、本人がやることを管理し、本人が計画し、本人がふり返る。
多少水を向けたりはしますが。
私から見ると、当然、穴だらけ。
マル付けは激甘で何でも〇にしちゃうし、
ふり返りは2年生の作文かよ、と思うような
「がんばったからできた」
「絶対合ってたのになぜか×だった」
「なんか調子が出なかったので本当はできるけど、力を発揮できなかった」
「家庭学習のしかたはよかったのにできなかった」
「時間配分を間違えた」
「反省するところは、
早く行きすぎて体力を浪費したこと。午後には疲れて力が出ない」
ぉぉぉ、そっすか、早く行って本科テキスト読み込みたいって言うから
弁当の用意も長男の送迎も
どうにかやりくりして早く行ってたんですけど、そっすかー。
たとえば、学校のただただ写すタイプの漢字練習を
「そんなやり方はダメだからやりたくない!やるきがでない!意味ない」
とやり渋ること2時間。
機嫌が悪いまま過ごし、ほかのことの能率もダダ下がり。
字もとても雑で、数字も斜め。
そんな状態で取り組めるほどヌルい学習はしていないはずなので、
ついていけなくなってしまう。
上手くいかない理由を学校の漢字練習のせいにして、
全てを台無しにする頻度がちょっと高すぎでは。
ちょっと先を見ない、というか予想していない。
このままだと間に合わないなー、とか想像出来ない。
「自分で計画をする訓練」が絶対的に足りていなかったため、
見通しも激甘。
修正して立て直した計画も激甘。 修正する時間ばかりかかる。
できている、と本人は思っているけど、客観的にはできていない。
直近の保護者会で算数の先生がおっしゃっていたアレだな。耳が痛い。
結果宿題にも時間がかかり、時間がかかった分、モチベーションが下がる。
好きなことをする時間も減る。
本人は分かっている、授業を理解している、というけれど、
栄冠の進みを見ると、とても充分とは思えない。
ここまで、
「親の走らせる技術+そもそも持ってた能力」でなんとかなっていたものが、
自身で走る力に切り替えた途端、空転したというか。
地に足がついていないままどんなに走ったところで前には進まない。
つまり、自分で走る!!!と自分が意識して、自分の足で、地面を踏みしめて、
残りの体力と相談してやれるところまでやる。
自分で走ると疲れるし、まさか自分で走ると疲れるなんて、
予想していなかったと思うし。
思う様に走れないまま、焦りだけが加速してしまうかも知れない。
普通はきっと、中学生が高校受験とかでやっと体験する自立というものを、
この段階でやろうという、特別な試みなんだと思う。
実はね、14.15才じゃ無くても、できるんだよ。
こうやるんだよ、っていう提示があったからこそ、チャレンジ出来る特別な試み。
やる?どうする?やってみたくない?
だからここまで、わたしに「助長」されてきたきゅーたろうが
この辺でズッコケるのは想定内として、
コケたら痛いし、怪我をしていたら治さにゃ走れないのはそうなんだけど、
いつもここが分岐点で、今まで無視した分岐点の結果が今。
良い方向に進む選択肢を(親に勧められたり決められるのではなく)
自分で選んで進まないと、同じ階でループしちゃう。進歩がナイ。
ちっとは高さをね、アゲていかないと。
んじゃその為に、
やらなきゃいけない事、やった方が良いこと、どう考えれば良いか、は
スバラシイシラバスに書いてあります。
それに沿って、どうやるのかは自分で試さないといけないけど。
もうすでにやってしまった、やっちゃダメだったことを振り返れるかな?
わたしだってそんなん振り返りたくないけどさ。
ダメなところって、どうしても無かったことにしたいし、
見たくないしなる早で忘れたい。
深夜のシャワー中にお顔を覆って「うわああああああああああ」ってなること、
ひとりで運転しているときに突如「うわあああああ!」ってなること、
大人ならゴマンとあるでしょうよ。
それをさ、もしも、自分じゃない人に指摘されたとき、
それはそのまま、その人への苛立ちに変換されて噴出してもおかしくない。
「おまえになぞいわれとうないわああああああ!!!」って、
わたしが新入社員の時に先輩社員を殺す目で睨んだことは頻繁にあったと思う。
それは、自分の未熟さが「人から見たときの自分」を認められなくて、
人のせいにして自分をごまかしているんだけど、
未熟であるほどそんなこと思いもしない。
たとえ相手 も 未熟だったとしても、
相手から見た自分は、自分の行いでしか変えられないのにね。
で、自分が懐いている先輩だとか、
懐いてはいないケド仕事が超できて良く見てる上司とかに言われると
「はい・・・・・・。スミマセンでした。今後はこうした方がいいですかね?」とか
自分のダメなところを認めるし、聞く耳持つ。
特に未熟な人(=子どもたち)については、
言い方と、言う人の立ち位置=つまり普段の行いが、
率直に話し合えるか否かを決めてしまう。
つまり、素直に聞いてもらえるかどうかは、
わたしの普段の行いがもう、すでに決めちゃっているので、
時既に時間切れ(ブロント語録より)。アチャー
だとすればよ、いまは私が意識してよくできるかもしれない「言い方」について、
そして「聞く態度、聞き方」について、
こ こ だ け に は 注意してきゅーたろうから話を聞きたい。
うっかり「それ違うんじゃない!?」とか、口を挟まないように。
「こうした方が良いんじゃない?」とか
「だからだよ!」とか「いつもいってるじゃん」とか
言わない様に、きゅーたろうの様子を良く見て、本当のことを聞き出して、
今後、どうするか、どうしたいか聞こう。
で、コケるチャンスを奪わないサポートをしようと思います。
コケて、なんでコケたのか把握して、
次コケないようにするのはどうすれば良いのかを身につければ良い。
なんなら一番痛くないコケ方を身につけてもイイ。
今起きている問題は、誰の問題か。
理想の自分と、現実の自分のギャップを努力で埋めたいのはきゅーたろうで、
私がどんなに努力しようと、きゅーたろうの成績には直接的には影響しない。
なので、これはきゅーたろうの問題です。
きゅーたろうに恵まれた環境を用意したいけど、それはできる範囲で、
お弁当をつくったり、送り迎えしたり、
わたしが話す内容がなんだ、聞いて欲しい、聞いて変わって欲しいってことより、
きゅーたろうが話したいことを、話してもらえる環境を整える。
これらはわたしの所有するわたしの問題。
きゅーたろうがどうあれやりたいことなんだから、
この問題にきゅーたろうは関係無い。
きゅーたろうもさー、なまじ上手にやっちゃうもんだから
こっちの期待も膨らむし、
できなかったときは期待の皮算用以上にガッカリするけど、
舞い上がったり、どん底にいる気分になったりしないで、
今の状態を正しく見て、わかって、やれることをやっていくのが
遠回りに見えて一番の最短距離なのかも知れないと思うのです。
わたしはこの壁打ちで何が分かったのか。
とりあえず、浮き足立たないこと。
都合の良い期待を知らない間に押しつけないこと。
選択肢を勝手に選んじゃわないこと。
きゅーたろうの様子を見て、何を考えているのかをしっかり聞いて、
私という壁を使ってきゅーたろうが壁打ちできるようにすること。
私は正しい、という思い込みを常に疑うこと。
そんなとこかな。小さい紙に書いて机の上に置いて、それを見ながら話そう。