あ~る・で子の観察日記

やあ。今日も愛機の轟天号であっちにいったりこっちにいったりしています。

「伝わる言葉の使い方」は「伝わる態度の持ち方」が土台で、その基礎は「伝わる考え方」の把握ではないかという話。ネーミングセンスの大切さ。

おはこんばんちはならー!

シカクいアタマをマルめたい。

出家ですか?いいえ、LOVE俗世。

あ~るで子です。

 

 

すんげぇいいことを聞いた!という感動があるとき、

誰が言っているのかが大切な気がしてならない。

 

なぜかというと、我が身をふり返ってみるときに、たとえばね、

「人と人は支え合っているので、人という文字なのです」と言われた場合の

2つのパターンを想像してみる。

 

相互に協力できないタイプの人に言われても、感動などしない。

むしろ、

「甲骨文字の学説によると、自立したひとりの人を横から見たのが『人』という字の成り立ちといわれているよ。支え合うとかなにくっさいキレイ事をwww」とか、

もうちょっとヒネた関係性だった場合は

「おいおい、何か私のことを利用して労力を浮かそうとしているのでは?」

などとすら、思いかねない。

 

ところが、助けていただいたことがある、自分の恩人が言ったらどうだろうね。

「人という漢字の成り立ちはともかく、この方が、この意味で言うのだから尊重するし、その考え方が好き。やっぱりありがたい事だ。さすがだ」

 

 

つまり、聞く耳を持っていただくためには、内容も多少の関係はあるけれども、

どんな間柄の人が言うのか、「私」がその人をどう思っているのかが、

とても重要と言う事になる。

 

 

 

 

とすれば、

自分の主張を聞いて欲しいとき、そして理解して欲しいとき

つまり、行動変えて欲しいとき、

聞き入れていていただけるか否かは自分にしかかかっていない。

 

言葉を発することは誰にでもできるけど、

その言葉を裏付ける態度について、普段からどう思われているかによって

聞いてもらえたり、聞いてもらえなかったりする。

 

 

態度は考え方の表出でしか無いから、言葉が伝わるか否かは、

その人間関係における好悪に帰着するってことか。

 

 

その人が、誰から見てどうなのかは関係無く、

その人が私から見てどうなのか、それしか関係無いし、

その人を私が好きか、尊敬しているとか、

そういうポジティブな関係性が無くちゃ意見を聞き入れない。

 

 

それは近い間柄では無くとも同様に起きることで、

たとえば著作によって影響されたりするのも同じだと思う。

 

 

若かりし頃、職場の給湯室に誰かが忘れた中谷彰宏自己啓発本を昼休みに読んで、

「へー。読みやすいし言っている事は確かにそうなんだけど、改めて言われるとナルホドって思う事もあるなあ」と思ったあと、

ブックオフに行ったら似たような本をじゃかすか出していることを知って

「ぅゎ~」って。読者舐めてんな~、似たようなことしか言ってないし、

なんなら最初の30ページより後にはあたらしい展開が無いじゃん。

と感じて2度と本を手に取らない。

 

なにかの番組で中谷彰宏が話している映像を見て

「ナニこのおっさんの声!!かなり素敵やんけ!!!」となることで、

同じ内容の本を焼き直して何度も出すセコいおっさんと言う印象から、

 

求められて書いているのかも知れない。

つまり似たような内容の本を何冊でも買ってくれる暇で裕福なひとのために

とても平易な表現で、60分で読める内容をあえて1冊に、

なんども改めてまとめ、違う本として出してくれているのかも知れない。

「自分をよくするための本を読んだぞ!なんと今月は3冊も読んだんだ!」

と思いたい人への著作なのかも知れない。

良い人なのかも知れない!?

ってなったりする(チョロい)。

 

買わないけどね。わたしは。でもイイ声だよね。

下に倍音が聞こえる厚みのある低音です。すごい説得力を感じるタイプの声。

 

 

 

んじゃ、

きゅーたろうに、ぴーたろうに、

私の言葉を聞いてもらう為に必要なのは、なんだろう。

イイ声は残念ながら持ち合わせていない。泣ける。

私はそれを信用だと思っていて、

どうしてなのか説明することを大切にしてきたつもりではある。

 

約束を守ること、守れなかったときの対応。

言う事の一貫性があること。

ことがらについて、良いと思うこと、悪いと思うこと、その理由などを、

なるべく言葉にして投げるようにしてきたわけだけれども。

 

どうしても「親子」という立場の強弱がある関係性で

日常生活を共にするとなると、いつもたっぷり時間があるわけでは無い状態。

ついつい、

強い言葉を使って言うとおりにさせる

説明をかっ飛ばしてとにかく事態にあたる

自分の不調により許容的態度が取れない

など、子どもに甘えた?(=自分に甘い)行動をとってしまう事がある。

 

今後は、その甘えてしまう事に意識的になって、

「あ、いま、わたしはやらかしたな」

と言う認識をまず持てるように自分を観察することにした。

 

 

 

ところで、新興宗教に対する我々のありがちなイメージはなんだろう。

良いものだと信じ込んで、良いものだからぜひ近しい大好きな人にも教えてあげよう、という情熱を持って布教するイメージがある。 

良いものだと信じているから、おしが、圧が、どうしても強すぎる。ぐいぐい来る。

 

いろいろあるけど、名前もカタカナだったり、由緒がありそうな仏教みがあったり、

キラキラしていたり、

なんかどれもこれもちょっとぼんやりとして実体が分からないが故に、

警戒心ばかりが喚起されちゃう。

 

 

「親業」と聞いてどう思うのか。

良いものだと信じて勉強し、

できればこの良さを必要とする人に紹介してあげたい

と思うこの気持ちは

新興宗教とどうちがうのか。

 

現時点での私の印象をメモっておくことが、

今後の私にとって財産になるかも知れないからメモしておく。

 

「親業」と聞いて

卑近な「親としてどうすべき!」という説教臭さを字面からとても感じる。

親子の風通しの良い関係とか言われても、

親の立場では「そもそも風通しは良いと思っている」人の方が多いので、

「子どもからみても風通しホントにイイの?」とした方が想像しやすい。

テクニカルな事を話されようとしていることになかなか気がつけない。

根性論に聞こえそうな言葉の選択であると思う。

もとの「Parent  Effectiveness  Training」のほうが正しく印象をとらえられると思う。

なんなら親子間のコミュニケーショントレーニングのほうが俗っぽくて想像しやすい分、わかりやすい。

副題としてはどうかな。

「こじれない親子関係の作り方」

「子どもが自立する親子関係の作り方」

「子離れテクニック」「ホントはしなきゃいけない親の我慢」

こうですか!わかりますん!

色々と考えてみよう。

なんかこう、もっと、簡単な割に本質を突き刺すナニカを。

 

ちょっと本を読んでかじっただけでも、実践した場合の効果がすごいことは想像ができる。

親子関係のみならず、人が人と何かを話すとき、かならず役に立つ。

良いものだと思う。

 

インストラクターのブログも、動画も、インタビューなんかもかなり見たし読んだ。

 

どうしても、効果があることを実践を通じて体感し、

良いものだという根っこがあるため、

キレイな、耳にとろりとやさしい言葉がうわべを飾ってしまう。

素敵なママになれる!子どもの笑顔が嬉しい!

こどもとの良い関係を築く事ができるから生活がバラ色!

みたいなキラッキラな印象の文面が、どうしても多い。

 

これはある意味、

「誰が見てもこらマズい」という親子関係からの復活劇が頻発する為に起こる、

予想外の副作用なんだと思う。

 

実際にこじれた親子関係を

ものすごい努力と学習と実践とフィードバックをやりとげ、

とてもよい親子関係に移行させた人がインストラクターだったりするから。

 

 

 

自分が良いと思うものを進める時って、

どうしても躊躇無くなってしまうのは、とても想像ができる。

 

そんなに問題だと思っていない比較的順調な親子関係でも、本当に大きな変化と、

子どもの本当の自立が達成できる素晴らしい方法だと、思う。思うけどね。

あとこれを子どもに実践して得た経験は、教師-子供間・医療者-患者間にも応用できるらしい。

そりゃそうだ。

親子間より遠慮の無い関係性など無いのだから、そりゃ役に立つだろう。

わたしは公立小中学校の先生に対するアレルギーがすごいから、ここにも劇的な作用のしかたをするのではないかと予想している。

 

 

でも

良いと信じ込んだものを、相手の受け取る状況を見極めずに強く推すと

新興宗教的になりかねないことを、

まだ学習して日が浅い「今の印象」として

ココに銘じておきたいと思った。

 

私がいちばんやらかしそうなものが、この狂信者的布教という間違えだと思うから。

 

子達の様子を意識的に見ること。

事実をそのまま、私フィルタを通さないで観測できること。

自分が「どう思っているか」=「どう思い込んでいるか」に気づくこと。

 

子どもだけでなく、折角なので、人と話すときは全て観察させてもらおう。

 

 

まさか塾の個人面談で、「親業」についての説明をされるとは思っていなかった。

4年前の12の方法を聞いた保護者体験会の時点での私にはまるで「新興宗教」にしか見えなかったし。12の方法を聞いて多少の衝撃を受け、「んじゃどうすりゃええんじゃい💢」と。そこで記憶が途絶えている。

その直後に「こうすると良いんですよ」って

その日1番のメインテーマについて話されたはずなのにまったく印象に残っていない。

もしも、このときに丁寧に短くない時間を割いて紹介されていたとしても、

きっとなにも響かなかったと思う。

このタイミングでこのチャンスをチラッと見せてくれた、その眼力。

その眼力をもって世界を見るとナニが見えるんですかね?

解像度が違う世界が見えてるんでしょうね。ちょっとそのレンズ貸して欲しいです。

 

 

 

そんなわけで、「親業」について、ちょっと本格的に学びはじめました。

ゆる募:同じ興味をお持ちの方、一緒に学習しませんか?

万が一、同じ興味をお持ちの方がいらっしゃいましたらTwitterのDMとかこのブログのコメント(承認式)にご一報くださいませ。

いま、インストラクターさんとマンツーなんですよ汗